『ピノキオ』の映画化権をめぐる訴訟 その1
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映画の題材をひたすら追い求める映画スタジオ。自社で企画を立てる場合もあれば、有名プロデューサーや監督、脚本家がスタジオに持ち込む企画に資金提供することも多い。しかし、映画の企画がいつも制作にこぎつける訳ではなく、多くの企画が脚本の段階でポシャったり、運良く制作されても劇場公開されないお蔵入り作品もある。ポシャった企画は、次の資金源を求めてスタジオ間を渡り歩く。コッポラの場合も例外でなかった。
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『ゴッドファーザー』('72)、『地獄の黙示録』('79)などで有名なアカデミー賞監督フランシス・F・コッポラが、ワーナー・ブラザースを相手に、8,000万ドルもの陪審判決を勝ち取ったというニュースは紙面を騒がせた。1998年のことだ。一個人が映画化権を争って、泣き寝入りせずに、巨大な組織の映画会社を相手に損害賠償を勝ち得るというのは画期的なことであった。その後、ロサンゼルス上級裁判所(第一審裁判所のこと)は、損害賠償額を一部修正して、2,000万ドルの損害賠償のみを認め、6,000万ドルの懲罰的損害賠償を破棄した。ワーナー側は、損害賠償を支払わなくてはならないことに納得せず上訴。一方、減額されたコッポラ側も上訴した。コッポラが見せる訴訟勝利への執念は、金銭だけでは割り切れない感情的なもつれがその背景にあることをうかがわせている。
訴訟のきっかけは今から10年前に遡る。コッポラは息子の死をきっかけに、息子に捧げる『ピノキオ』の実写映画化を企画し、1991年、ワーナーにこの企画を持ち込んだ。ワーナーは乗り気で、早速脚本家を雇い、脚本を書かせるなど、積極的に資金を投入した。ところが、2年にわたったコッポラとの契約交渉では、映画制作費の規模やプロデューサーを兼任するコッポラの監督料などについてワーナーはコッポラの希望額を提示できず、物別れに終わった。 |
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コッポラは、ワーナーとの縁が切れたと思い、次の映画会社を探した。よくある話だ。コッポラは、コロンビア・ピクチャーズで『ドラキュラ』('92)を制作し、これが、1992年に思いがけない大ヒットとなり、コロンビアの幹部らを喜ばせた。コロンビアは、コッポラを暖かく迎え、『ピノキオ』の企画に破格の条件を提示した。契約書によると、コロンビアは、コッポラに制作費の50%を作品完成時に支払い、引き換えに、アメリカとカナダでの配給権を30年間もらうはずだった。コッポラは、北米以外の地域での配給権を前売りし、残りの制作費を調達する算段を立てていた。
ところが、コッポラの思惑とは裏腹に、ワーナーはもう『ピノキオ』は自分たちの企画であると解釈していた。もともとはコッポラの持ち込んだ企画だが、最終的には彼と映画制作の契約には合意できなかったものの、脚本化を進めている段階で、コッポラはワーナーとの間で雇用契約を結んでいた。その雇用契約を根拠に、ワーナーの弁護士は『ピノキオ』は自社の企画であるとして、コロンビアに対してその旨を通知した。ハリウッドでは、ライバルとは言え、同業者とのトラブルは避けたいもの。コロンビアは、コッポラに対して、ワーナーと円満解決するよう求めた。こういうと聞えは良いが、実質的には、この問題が解決しなければ『ピノキオ』にお金は出しませんよ、と言っているようなものだった。
ワーナーの横槍に憤慨したコッポラは、『ピノキオ』の映画化権を争って、1995年9月13日、ロサンゼルス上級裁判所にワーナーを訴えたのが本件だ。裁判が進む過程で、単純な映画化権の争いよりももっと根深い、ワーナーの幹部らとコッポラの間の長年にわたる確執が噴出する。 |
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約30年前、まだ新進気鋭だったコッポラはまだ無名だった弟分のジョージ・ルーカスらといっしょに、ワーナーで映画制作の企画を練っていた。ワーナーは彼らの企画に投資し、脚本代まで払ったが、最終的な制作スタートのゴーサインは出さなかった。これもよくある話なのだが、当時のコッポラらは映画界の常識を覆そうと怒り狂う、血気盛んな若者だった。その後、コッポラらは意地を見せ、ワーナーが拒否した彼らの企画を次々と他のスタジオで完成させ、大ヒットとへと導く。それが『アメリカン・グラフィティ』('73)であり、『ゴッドファーザー』、そして『地獄の黙示録』だった。
ワーナーがこの成功を見逃すわけがなかった。自分たちにも取り分があると考えたようだ。パラマウントがコッポラの『ゴッドファーザー PART II』('74)を制作しようとした矢先、ワーナーはパラマウントに対し、今までコッポラに投資してきた金額を返済するよう要求した。驚くことに、パラマウントはこの無理押しにすんなり応じ、ワーナーに投資額を返済してしまった。実はパラマウントは、ワーナーへ支払った金額をコッポラの取り分から差し引くことで、自分たちの腹は痛まない方法を取った。結局、損をしたのはコッポラ本人。コッポラは、30年前のこの出来事を忘れていなかった。『ピノキオ』の企画でもワーナーは同じような横槍を入れてきた。コッポラがワーナーを許せなかった理由がここにある。
つづく。 |
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