TEXT BY 堂本かおる(フリーライター)

 『マンボ・キングス わが心のマリア』~ラテンの熱き世界

 夏と言えばホットでエネルギッシュなラテン・ミュージック。今回は、古き良き1950年代のニューヨークのラテン・ミュージック・シーンを描いた『マンボ・キングス わが心のマリア』の世界をリポート!
 ニューヨークにはいくつものラテン・コミュニティーがあり、そこに一歩足を踏み入れようものなら、たちまちラテン・ミュージックの洪水に呑み込まれてしまう。そこまで足を伸ばさなくとも、ダウンタウンやミッドタウンにも中南米やカリブ海のラテン料理を出すレストラン、ラテン・クラブやダンス・スタジオがある。また、夏の間はセントラル・パークなどでひんぱんに野外コンサートが開かれ、そこでもラテン・ミュージックを楽しむことが出来る。
サルサ&マンボ・バンド。ステージは派手でも練習風景は意外に地味
 しかし、ひとくちにラテン・ミュージックと言っても、サルサ、ルンバ、メレンゲ……と様々なスタイルがあり、映画『マンボ・キングス わが心のマリア』('92)で主役となっているのは、もちろんマンボだ。
 1950年代のニューヨークでは、キューバ発祥の音楽マンボの熱狂的なブームが巻き起こっていた。人々は夜ごとダンスホールに通い、マンボ・バンドの演奏に合わせて踊り明かしていた。

 シーザー(アーマンド・アサンテ)とネスター(アントニオ・バンデラス)の兄弟は、マンボの本場キューバで活躍するミュージシャンだったが、クラブの経営者と女性をめぐってトラブルを起こし、アメリカへと渡ってきた。ふたりはニューヨークでもさっそく“マンボ・キングス”を結成して演奏を始めるが、アメリカのショービズ界は厳しい。しかも兄シーザーが鼻っ柱の強さから業界のドンの誘いを断ったために、仕事をほされてしまう。
映画『マンボ・キングス わが心のマリア』
 ふたりは仕方なく昼間は精肉工場に勤め、休日にはユダヤ教の成人式バーミツバーや、ロシア人のパーティで演奏してなんとか糊口を凌ぐ。このあたりは、いかにも“エスニックのサラダボウル”と呼ばれるニューヨークらしいエピソードだ。
 そんな苦労の合間に、兄弟はそれぞれ女性と出会う。プレイボーイの兄シーザーは身を固める気にはならないが、生真面目な弟ネスターは美しいドロレスと結婚し、子どもも授かる。しかしドロレスは、ネスターがキューバ時代の恋人マリアを忘れていないことに気付いており、しかも、ネスターがマリアを想って書いた曲「我が心の美しきマリア」がヒットしたことで、ますます傷ついていく。ネスターも、自分がいつまでたっても兄のいいなりで独り立ちできないことを思い悩む。そして、ついに運命の時がやってくる……。

 見所は、やはり1950年代の華やかで活気のあるラテン・ミュージック・クラブでの演奏シーンだ。なかでもブロードウェイと53丁目の角に実在した“パラディウム”のシーンでは、当時、実際にパラディウムで演奏していた“ラテン・ミュージックの帝王”ティト・プエンテがカメオ出演している。兄シーザーと共に繰り広げるティンバレス(パーカッションの一種)合戦は圧巻だ。
ラテンは街角のポスターのデザインも熱い?
  もうひとり、この作品に出演している実在のミュージシャンが“ラテン・ミュージックの女王”ことセリア・クルーズ。キューバに生まれるが、1950年にアメリカへ渡り、当時から現在に至るまで、随一の実力で圧倒的な人気を誇るシンガーだ。このラテン・ミュージックの女王はいまだに英語よりも母国語であるスペイン語のほうが達者で、したがって映画の中では出番が多い割りにはセリフが少ない。

 また、スペインの映画界で活躍していたアントニオ・バンデラスにとって、この『マンボ・キングス』は初の英語作品だった。今ではブロードウェイのミュージカルにまで出演するバンデラスだが、撮影当時は英語がまったく話せず、台本は「英語を“音”として丸暗記した」という。トランペットも初挑戦だったというが、見事に吹きこなしている。
ラテン音楽の帝王ティト・プエンテの壁画。亡くなった後、顔はスマイル・マークに描き換えられた
 ラテン・ミュージックとは、とにかく聴いて踊って楽しむ“熱い”音楽だが、同時にロマンチックで切ない音楽でもある。この『マンボ・キングス』には、移民の苦労、ミュージシャンの華やかな生活と苦しみ、男と女の情愛がふんだんに盛り込まれている。ラテン・ミュージックの真髄を、そのままスクリーンに焼き付けた秀作だ。


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