2001年2月10日(土)より中野武蔵野ホールにて待望のロードショー! | |||
皆さんはチュニジアという国がどこにあるかご存知ですか?チュニジアはアフリカ大陸の最北端、リビアとアルジェリアの間にあり、地中海を挟んでイタリアの対岸に位置しています。「イン・シャー・アッラー(アッラーの思し召しのままに)」が挨拶の国チュニジア。今回は、日本ではあまり知られる事のないチュニジアから、『ある歌い女の思い出』という映画を紹介します。チュニジアでは、映画はすべて政府の援助を受けてつくられており、カルタゴ映画祭、ジェルバ神話映画祭といった映画フェスティバルも開催されています。この作品は第47回カンヌ映画祭カメラ・ドール特別賞を受賞、ほかにもシカゴ映画祭最優秀新人監督賞、トロント映画祭国際批評家賞、サンフランシスコ映画祭サタジット・レイ賞など、数々の賞を受賞しています。物語は50年代のチュニジア、王政最後の王宮を舞台に繰り広げられる母と娘の葛藤を丹念に綴ったもの。本作で数々の賞を飾り華々しくデビューを飾ったチュニジア人女性、ムフィーダ・トゥラートリが監督しています。 | |||
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<“母”をめぐって> 主人公のアリヤは、かつては栄華を極めたチュニジア王宮の庭を歩きながら、母ケディージャの人生を振り返ります。淡々とした画面作りは、アリヤの心を映し出す鏡として監督が意図して創り上げたものとも言えます。彼女はケディージャに対し、同性として厳しいまなざしを向けますが、アリヤ自身、母になることに直面して初めて、ケディージャの本当の気持ちを理解するのです。それは時代や状況を超えた“母”と“娘”の普遍的な関係でもあるのです。娘アリヤを愛したケディージャ。それはイスラムの預言者ムハンマドの賢妻の名でもあります。この物語は、過去と向き合った“娘”の“母”に対する痛ましくも敢然とした決意の物語なのです。 |
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以来アリヤはウードを手に大好きな歌を歌うようになる。その頃、王宮の外はフランスと独立派の衝突で不穏な空気を孕み、ハッダの息子の友人ロトフィが召使の部屋にかくまわれる事になった。やがてアリヤとロトフィは互いに引かれ合うようになる。その頃、ケディージャは新たに身ごもったのを知り愕然とする。もしかしてシ・ベルジの子では…と思い、ケディージャは流産を促す。ある晩、アリヤは王女サラの婚礼で歌うことに。賞賛の呟きがもれる中、アリヤが2曲目に歌ったのは王宮で固く禁じられていたチュニジア独立派の歌だった。同じ頃、ケディージャは突然の腹痛に見舞われ、やがて悲劇が訪れる。10年後、うらぶれた王宮の庭を歩きながらアリヤは母を思い、ある決意を固める…。 |
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STAFF&CAST 監督・脚本・編集:ムフィーダ・トゥラートリ 撮影:ユセフ・ベン・ユセフ 製作(チュニジア側):アハメド・バハエッディン・アティヤ、モハメド・トゥラートリ 製作(フランス側):リチャード・マグニエン 音楽:アヌアル・ブラヒム 出演:アーメル・ヘディリ、ヘンド・サブリ、ガーリア・ラクロワ、ナジィア・エルギー、カーメル・ファザーア、サーミー・ブアジア、ヒシャーム・ロストム
DATA |
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チュニジアは、カルタゴ王国の建設に始まりギリシャ、ローマとの戦い、ローマ帝国属領時代のアフリカの中心として発展、アラブ人によるイスラム国家建設、オスマン=トルコの版図、そして19世紀にはフランスの植民地支配といった、様々な歴史の記憶をとどめた土地。映画は古い時代の残滓と新しい時代の萌芽をあわせもつ、フランスからの独立(1956年)前後のフランスによって細々と維持された王族の宮殿を舞台に、新時代への胎動にみずから身を委ねて行く若い世代の希望と、旧秩序に支配され虐げられる女召使の哀しみを浮かび上がらせます。北アフリカの照りつける太陽、青い海と白い家並み。この地中海的風景に、滅ぼされあるいは虐げられた人々の悲しみの記憶は、忘却を強いられる。かろうじて王宮に残されたチュニジアン・ブルーのタイルが、そこで生きた女召使の流した涙を彷彿とさせるかのようです。 アリヤが奏でる哀切な感情を喚起するに効果的な民族楽器ウードは、リュート(西洋琵琶)のもとになったもの。もの悲しい音色は、女召使ケディージャたちの哀しみを紡いだ、か細く頼りない透明な糸のようです。このウードの調べは、チュニジア音楽におけるウードの復権者といわれている、アヌアル・ブラヒムによるもの。彼の活躍の場はひろく、ジャズ・ミュージシャンとのコラボレーション「サマール」は、日本でも発売されています。また、宴のシーンで一同が聴いているレコードの曲は、エジプトの大歌手オムキュル・スゥームの「レッサフェイキュル(まだ覚えている)」です。 |
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